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記憶/軍人像   2012年夏・大慈山 中之院

_DSC1603軍人像集合

IMG_1625軍人像集合

IMG_1643軍人

IMG_1641軍人像

_DSC1594軍人像t

_DSC1596軍人t

_DSC1563軍人像t

_DSC1582軍人像t

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_DSC1588軍人像t

IMG_1653軍人像

_DSC1598軍人像

IMG_1653軍人像

IMG_1644軍人像

_DSC1564軍人像

IMG_1633軍人像



合掌


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南知多の軍人像のお墓

8月23日、知多半島の南の端っこに通称「たぬき寺」というのがあり、なぜかそこに軍人像が弔い祀られている、と言うので南知多に行って来ました。

愛知県 知多郡 南知多町 山海字土間53 岩窟寺の脇、天台宗大慈山 中之院がそれです。
山門をくぐると確かにタヌキの置物がそこいら中にあります。
屋根の上にはシーサーみたいにのっていたり、信楽風のタヌキ像、その上なぜかカエルまでにぎやかに置いてありちょっとしたパラダイス状態です。
なるほど、なんだかちょっと怪しい、はやらないお寺のかんじです。

山門
大慈山 中之院

屋根のたぬき
山門の屋根にはシーサーのようなタヌキが

IMG_1688タヌキと蛙IMG_1693たぬき鉢

ところが、裏手へまわると雰囲気はがらりと一変します。
そこには数十体の軍人像が建ち並んでいました。大きさもポーズも、像の素材もまちまちです。
多くはコンクリート製らしいのですが、その表情の豊かさには驚きです。
どの像の眼差しも生きているのです。

IMG_1678軍人像

階級も所属も、これまた違う軍人兵士たちは一人一人個性豊かで、在りし日の個人の姿が浮き彫りにされています。戦争でただ軍人が死んだのではなく、一人一人の兵の個人が亡くなったのだと言うことを、このもの言わぬ兵たちは語っているようです。
犬好きだったのか犬を連れた兵、口を真一文字に結び虚空を見つめる兵、ちょっと猫背のまだ少年らしい兵。
その誰でもが大切な家族の一員であったことを忍ばせる軍人像であります。

_DSC1576p.jpg

_DSC1574p.jpg

_DSC1566p.jpg

IMG_1632軍人像群

IMG_1650犬と

これらは元々、名古屋市の千種区に在ったものだそうで、
その説明書きには

ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で
戦死された名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。
緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、
艀で野間沖に待機していた巡洋艦・駆逐艦に乗り込み、わずか廿六時間で揚
子江河口付近に到着後の昭和12年8月廿三日の敵前上陸でした。
が、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
軍人像そのものはめいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造
らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が「国のために死ぬということ
はアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、
どうしても壊すというなら、我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って
壊せばいいだろう」と頑張った。
おかげで像は壊されずに済んだということです。
建立当時より名古屋市千種区月ヶ丘にあったもので、当山には御縁により平成
7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
現在もよくご遺族ご縁者の方が御参りにいらっしゃっています。
天台宗 大慈山 中之院

と、書いてありました。
IMG_1593軍人像後ろ姿

いつの世も戦争で死ぬのは軍人という無人格な道具ではなくて、あくまでも誰よりも大切な兵という名の個人
なのです。
遺族の故人を思う気持ちが痛いほど伝わる像群でした。

呉・倉橋島の戦争遺構を訪ねる

あけましておめでとうございます。

 新年の事始め?に呉~倉橋島へ行って来ました。今年はNHK大河ドラマが”平清盛”。そこで清盛の日招き伝説のある音戸ノ瀬戸は外せないはず。 と、言うわけではなく、呉から倉橋島に点在する戦跡(戦争遺構)を訪ねてみました。倉橋島には時々釣りに来るのですが、その時いつも気になっていた今も残る戦争遺構を、今回は見て歩こうと言うのがテーマです。

アレイからすこじま基地

 呉駅から車で警固屋・音戸方面へ走ります。旧海軍の戦艦大和を建造したドックや巨大なクレーンが林立する造船所を過ぎ海岸線に出たところに、アレイからすこじまの潜水艦基地があります。この基地のすぐ山手に防空監視所や港湾監視所の跡があります。海軍工廠の地下工場が在った所で、山の斜面から2本の換気塔が突き出ているのを見ることが出来ます。

防空監視所
これは防空監視所

監視窓

通気孔
地下工場からの換気塔らしい

 アレイからすこじまは現在公園になっており、ここから海上自衛隊の艦船や潜水艦部隊を眺められます。その公園の前の煉瓦造りの建物は旧水雷倉庫で、そこから正面の旧潜水艦桟橋には運搬用のトロッコのレール跡が残っています。その左手には魚雷積み込み用のクレーンが保存されていて、当時の様子をうかがい知ることが出来ます。このクレーンは内部も見学でました。クレーン操作室の壁は板で出来ていました。

アレイからすこじま潜水艦基地

あれいからすこじまの説明板

アレイからすこじまの砲身
日露戦争時代の砲身のモニュメント・後ろの煉瓦造りが旧水雷倉庫

水雷運搬用トロッコのレール
旧潜水艦桟橋に残る、水雷倉庫から運び込むためのトロッコのレール

アレイからすこじまのクレーン2
魚雷積み込み用クレーン

アレイからすこじまのクレーン

クレーン内部
クレーン内部

 アレイからすこじまから次は高烏砲台です。ここは現在音戸の瀬戸公園となっており、春は桜の名所としても有名です。ここからは広湾や倉橋島、音戸ノ瀬戸、呉湾が一望でき、眼下では今建設中の新音戸橋の架橋工事が進んでいます。

高烏からの眺め
広湾沖・倉橋島方面を望む

工事中の新音戸橋
眼下に新音戸橋の架橋工事が進む

 この砲台は、軍事拠点の呉港の防衛のために明治時代に作られた物で、昨年放映されたNHKのドラマ「坂の上の雲」で、二〇三高地の攻撃に登場した当時最大の威力を誇った28センチ榴弾砲6門を装備する砲台でした。
今は公園に整備され地下弾薬庫上の要塞の上に、平清盛が扇をあおいで沈む夕日を呼び戻したと言う伝説の日招き像が建てられています。
高烏砲台説明板

平清盛日招き像
平清盛日招像

高烏要塞の清盛像
要塞の地下弾薬庫

砲座脇の地下弾薬庫
砲座脇の地下弾薬庫(応急弾薬庫と記してある)

 驚くほど分厚いコンクリートを施した弾薬庫や石造りの兵舎などが在り、往時をしのぶことができます。
高烏砲台兵舎1
明治時代の石造りの兵舎跡

高烏砲台兵舎

 倉橋島へ渡り桂が浜を経て室尾を左折、峠を越えて海に出たところを右折。暫く行くと特殊潜航艇基地、大浦突撃隊大迫支隊跡碑がありました。ここは昭和19年に作られた水陸両用内火艇訓練基地でQ基地と言い、その後昭和20年大浦崎の特殊潜航艇訓練のP基地が手狭になったため大浦突撃隊大迫支隊となったのだそうです。今は湾に突き出たコンクリートブロックの桟橋の跡しか残っていません。

Q基地石碑
大浦突撃隊大迫支隊跡碑

Q基地桟橋跡2
水陸両用内火艇桟橋跡

Q基地桟橋跡1

 その先の大迫港を左折して軽自動車でも怖い極細のくねくね道を行き、ようやくターン出来そうなところで下車。そこから北側の下り坂を歩いて下りました。海岸づたいにしばらく行くとコンクリート製のトンネルがありました。トンネルの中程には脛あたりまで水が溜まっていて不気味です。まるで過去へのタイムトンネルのような雰囲気、これが亀ヶ首射撃実験場の入り口です。

トロッコ用トンネル1

亀の首試射場トロッコトンネル

 ここを抜けると大きな2本の突堤目に入ってきました。両方の突堤にレールが敷かれて、ここから大型の砲身や相当な重量物をクレーンで陸揚げしていたようです。今は草藪に覆われていますが、ここの平地から山に向かって射撃実験をしていたそうで山の中部がえぐられています。

亀が首試射場2
ここから砲身など陸揚げしたらしい

亀が首試射場1

ここは戦艦大和の主砲の開発実験も行われたところだそうです。周りには木々に覆われた中に分厚いコンクリートで囲われた地下弾丸破裂試験槽、観測所や弾薬庫跡がありした。因みにこの場所はグーグルの衛星写真でもその形が確認できます。

亀が首にて
この辺りが発射実験場

地下弾丸破裂槽跡
地下弾丸破裂槽跡と思われる分厚いコンクリートで囲われた遺構

 最後は音戸まで戻って坪井漁港に寄ってみました。ここには、戦争末期に苦肉の策として考案され、建造されたコンクリート製の油槽船が、今は防波堤として、完全ではありませんがその姿を残しているのです。しかもこの船は、安浦港にあるコンクリート船とは違い自力航行ができない曳航式です。しかし、なんとマニラやシンガポールなどに実際に使われたそうで、当時の日本の置かれた立場が痛いほど分かる戦争遺跡です。

コンクリートの曳航船


 先人たちの血の滲んだ努力に敬意をはらいつつも、二度と戦争をしてはいけないと深く考える一日でした。

終戦末期のコンクリート船が....。

 今年の夏は何処にも行かなかったので、三原までタコ飯を食べにドライブに行ってきました。
 
 その帰り道、呉線沿線の安浦に終戦間際に活躍したコンクリート船があるので見てきました。当時材料不足のため、コンクリートで船を造ることを考案し建造したのだそうです。
 昭和19年~20年に4隻作られ、内3隻は、瀬戸内や南方へ航海したと説明がありました。その後、昭和22年安浦港に、武智丸などを防波堤として沈設したのだということです。
 コンクリートの船なんて、何となくカチカチ山のタヌキのドロの船を連想します。
 
 そこまで日本は困窮していたのですね。中にも入ってみましたがなかなか興味深いものでした。コンクリートで船を造り、そこまでして凌ぐということ。それを成し遂げるたくましさと、技術の確かさには感心します。
 

安浦のコンクリート船

コンクリート船荷室部

コンクリート船構造部

構造部内部

武智丸碇装置跡

 要所々々に使われている鉄は錆びては居ましたが、廃墟となった船内でじっとしていると活躍した往時の息吹をかんじます。

 帰り道、呉の海上自衛隊潜水艦基地で休憩。鉄のくじら(潜水艦)が4隻係留されていました。プカプカ浮いてる潜水艦を見て戦後65年の隔たりと、平和を享受している己の幸せを感じざるを得ません。

潜水艦2隻 潜水艦日章旗

潜水艦基地

自転車BD-3で回天の島大津島へ行って来ました

8月16日、山口県徳山沖にある回天の基地に行って来ました。
友人と2人、自転車で回りました。広島から徳山までは、友人のワンボックスに自転車2台積んでの移動です。徳山港から約5kmの所にあるスポーツ公園の駐車場で自転車に乗り換え、徳山港へ。

徳山港のりば
大津島行きの船のりばに着くと回天の実物大レプリカが目に飛び込んできました。これは映画「出口のない海」で撮影に使われたものだそうです。
レプリカ案内板
徳山港から大津島の瀬戸浜港までは約20分、片道乗船券690円自転車積み込み270円です。自転車は荷物扱いですから宅配便の荷物などと一緒に後ろのデッキです。
デッキの積荷
2人を降ろした船"鼓海Ⅱ"はすぐに回天基地跡の在る馬島港へと出て行きました。
ここから約7.5kmのサイクリングです。
瀬戸浜港
お盆なんてあったのかしらと思われるくらい静かです。還暦オヤジが2人、ミニサイクルで走る以外人影がありません。対向車なんて1台もいません。只々静かです。
大津島ポタ
馬島港に着くと象徴的な大きな看板が迎えてくれます。
ようこそ回天の島
その手前の大津島小学校(当時回天の整備調整や訓練施設の在ったところ)脇の公園を抜け海岸に出ると、沖合に突き出した魚雷や回天の発射訓練施設が見えます。
回天基地とBD-3

海に浮かぶ回天発射塔
青い海に静かにそのシルエットが浮かびます。回天隊員は1375名、戦没者は回天搭乗員と整備員を含め145名とのことです。
トロッコ用トンネル
魚雷や回天を搬入するためのトロッコ用トンネルが残っています。ここを回天の隊員も歩いて通っていたのだそうです。
伊号潜水艦と回天

回天の写真スクリュー
トンネル内部には、回天を運んだ伊号潜水艦の資料写真など展示してあります。
トンネル
トンネルを抜けると青い静かな海でした。
発射状跡石碑

訓練基地跡案内板
回天基地は65年以上も前に造られたものですが、コンクリートの構造物はしっかりしていて、当時の軍の力の入れようが分かります。
魚雷発射溝

回天基地ポンツーン
回天は大きすぎて魚雷用のものが使えず別にクレーンを使って降ろしたそうです。今もクレーンの跡がのこっていました。
クレーン跡

回天発射状跡案内板


回天基地へ行く為に下調べをしていて、こんな事を知りました。
それは、

『昭和20年7月29日。回天攻撃のため出撃した伊58潜水艦が、米巡洋艦インディアナポリスを発見。回天2艇の発進準備完了後、まず通常魚雷攻撃6発を行い潜行した。3個の爆発音を感知し再浮上してみるとインディアナポリスの姿は見えなかった。伊58より「敵艦撃沈と思われる」の暗号電報を発信。米軍無線班はこれを傍受解読していたが、このインディアナポリスはマンハッタン計画の任務でテニアンへ原爆を輸送しての帰途であり、この艦の行動自体も極秘であったため関係者に通知されておらず、電文もまじめに対応されなかったらしい。このため救助を待っていた800人余りが犠牲となったとのこと。その8日後の8月6日、広島で30万人以上の命が失わた。』

インディアナポリスの米兵800人もマンハッタン計画の犠牲者かもしれません。


山手にある回天記念館は、行ってみるとすでに閉館されていました。回天基地の写真を撮り、なんとなくぼんやりとしていたら時間が経っていました。、閉館時間の午後4時半に15分前でしたが、施錠され誰もいません。中年の女性来訪者も一人有りましたが、その人もがっかりした様子で山を下りて行きました。
回天記念館参道
回天記念館の入り口参道には回天戦没者145名の名が刻まれています。
長野出身者4名

回天

回天の菊水

回天の後部

回天に関する下調べをしてみて、回天の基地はここ大津島以外に、光・平生(山口県)・大神(大分県)など4カ所であったことや、搭乗員の平均年齢が21才位で、皆がこの"回天特攻"の方法に活路を信じ、真剣に妻や子・両親・愛する人を守ろうとしていたということが伝わってきました。この純粋さは、以前訪れてみた鹿児島の知覧特攻基地の人たちも同じでした。

この方々に恥じない生き方を自分はしてきただろうかと考える次第です。
プロフィール

ケムケム

Author:ケムケム
小さな畑とカメラいじり、釣りと薫製造りを楽しんでます。その上自転車にもはまってしまいました。

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